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皆野高校PTA・後援会(設立経緯)
昨日掲載したように、皆野高校PTA・後援会は令和8年3月7日(土)開催の臨時総会での決定により、その役目を終了しました。
この臨時総会冒頭で、A4版1枚両面刷り(2,692文字)の文書を配付しました。それは皆野高校・・・分校時代からのPTA・後援会の活動記録「皆野高校 PTA・後援会の設立経緯」と題した文書です。
秩父東高校の分校時代から皆野高校設立に向けた、今では考えにくい程の激しいPTA・後援会による活動があり、秩父地域の1市4町5ケ村による組合立高校として開校・独立・県立となることができた、という記録を改めて記憶してもらい解散の決議をお願いしました。
【長文になりますが配付文書の内容、一部修正しています】
令和 8年 3月 7日 PTA・後援会臨時総会
皆野高校 PTA・後援会の設立経緯
昭和41年度より 分校として開校当初から東高校本校とともに活動開始
昭和41年度 昭和41年度開校。PTAは本校・分校の保護者が一丸となり第2代会長赤岩頼道氏を中心に組織を整備して大活動が始まった。当時の PTA活動の大目的は県立高校2校同時新設、即ち県立秩父東高校、県立皆野高校設置への運動である。秩父東高校PTAとして各地区に支部を設け、多数の役員をおき、毎週役員会を開き、支部会も頻繁に開かれた。秩父市に対しては校舎の増築・校地拡張の促進、皆野町には皆野高校校地の買収を要請し折衝を重ねた。ハガキによる陳情作戦や街頭署名運動も行い、署名を持ってバス3台を連ねて秩父郡市の首長と同道して埼玉県議会に対して県立2校の新設を請願した。さらに各地の県議会議員宅を訪問、県教育委員会にも陳情を繰り返し、全県下を飛びまわるなど極めて活発な活動を展開した。秩父郡市だけが飛びはなれて全日制高校の開門率が低い。そのため ①秩父の子供が高校教育の機会にめぐまれず、教育の機会均等の立場から非常なる差別を受けている ②秩父の市町村は高校進学への地区民の要望により乏しい財政にもかかわらず多大な財政を負担して組合を設置し、全日制秩父東高校を開設、県が行うべき高校教育を自ら行っており、そのため市町村財政の破綻さえ招きかねない状況であるということ、これらはまさに公平を欠く県政の所業であると訴えた。
昭和42年度 昭和42年に入り、秩父郡市の中学校PTA連合会にも呼び掛けて、この運動は秩父の子供たちのためのものであって、単に秩父東高校の県立移管運動ではないことを説いて、共に子供のために立ち上がることを求めたが理解を得られず、秩父東高校PTA単独で運動した。
県議会文教委員からは、2校同時の県立移管は県下の情勢からして無理であると指摘されており、仮に秩父東高校だけが県立移管した場合、県立の全日制高校では分校制度は教育委員会として認めていない。これ等の状況下で、皆野町では設楽町長を始め町議会や町の有識者の間で、一貫して皆野高校新設、秩父東高校からの分離独立、県立移管を想定し推進していた。
昭和42年夏、PTAは最後の決意を固め10月開催の埼玉国体開会式の会場において、次いで秩父の国体会場において陳情の行動を行う計画を立てた。「運動の進め方」なる諸計画を印刷公表した。実際に、当時の東高校長室に数十枚もの「むしろ旗」を運び込んで「むしろ旗」を立てるなどして天下に訴えようと計画し、国道299号を走る天皇陛下に訴える準備を進めていた。
国体開会式前々日、10月20日PTA役員20名で知事や教育委員長らと最終会見、秩父東高校を分離独立して秩父東高校及び皆野高校2校を43年3月中に県立とすることを求めた。議論の末「国体を平穏に開催させて欲しい、国体が終わったら処置の返答をする」との口約束を得た。むしろ旗による天皇陛下への訴えの計画は踏みとどまった。11月になり知事から「秩父郡市内に県立2校を同時に新設するのは県政全般から無理である。秩父東高校は43年3月に第1回卒業生が出る。皆野分校は44年3月でないと卒業生が出ない。まず秩父東高校を43年3月中に県立移管し、皆野分校は44年3月中に県立移管する。校地を早急に提供してもらいたい。なお、皆野分校は秩父東高校県立移管と同日、組合立皆野高校として独立する。これで我慢して欲しい」との案が示された。承認せざるを得ない案であった。皆野町でも止むを得ずこれを諒として期待を翌年につなぐこととし、差し当たって校地の選定を急務とすることとした。
独立校 皆野高等学校としてスタート(昭和43年3月30日)
昭和43年3月29日、秩父高等学校組合会議で埼玉県秩父東高等学校を廃止し、新たに埼玉県皆野高等学校設置の件が議決される。翌日3月30日、埼玉県立秩父東高等学校設置が公布され県立移管する。皆野分校は秩父東高校の県立移管と同日(3月30日)、組合立埼玉県皆野高等学校として校名を改称して分離独立、開校3年目の43年4月独立校としてスタートした。
組合立皆野高校として分離独立後の最初の入学生2クラス(3期生)、最終志願者数(昭和43年2月12日)は、男子商業科141名で入学試験を実施した(1.41倍)。3月に43年度入学許可候補者発表、男子商業科108名を入学許可候補者とした。
昭和43年度 4月1日秩父市外4町5ケ村組合立埼玉県皆野高等学校として発足。4月9日入学式男子108名(3期生)入学、2学級。初代校長は高田喜好校長(小鹿野高校教頭より)、教職員は20名。1年2クラス、2年3クラス、3年1クラス 全6学級、全校生徒309名の3学年揃ってスタート。草創期らしい変則的な編成である。
PTAは「秩父東・皆野高校PTA」と改称し、5月のPTA総会において皆野高校県立移管実行委員会を設置、皆野高校が県立移管するまで分校時代と同様に一緒に活動することとした。会長は赤岩頼道氏が留任、皆野高校からは多田守吉氏、杉浦武寿両氏が副会長となった。皆野高校県立移管実行委員会は、6月から12月まで会議が16回開催されている。PTA役員は、家業を投げうって連日運動を続け、この熱意が県にも例のない秩父東高校創立2年11ヶ月(昭和43年3月)で県立移管という偉業をなしとげたと言っても過言ではない。この後は皆野高校校地の獲得が主なる運動となり、地元皆野町長に早期校地の設定を訴えていく。後援会もPTAと同じ組織で発足している。
組合立皆野高等学校から県立皆野高等学校 (昭和43年度末~)
昭和44年3月30日、県議会に於いて組合立皆野高校の県立移管が議決。秩父市ほか4町5ケ村立秩父高等学校組合会議により埼玉県皆野高等学校廃止、3月31日埼玉県立皆野高等学校設置。ここに組合立高校が地元の根強い県立移管運動の結果、待望の県立移管となり同日、延ばしていた第1回卒業式が挙行され、卒業生全日制男子商業科47名、木造の講堂で質素ではあるが感動的な卒業式を挙行した。
PTA・後援会も秩父東高校と分離。
昭和44年度 5月8日に設立総会を開き規約を定め「皆野高校PTA・後援会」が発足した。PTA会長に多田守吉氏、後援会長には皆野町長設楽徳之氏を選出。しかし、一本立ちしたPTA・後援会を待っていたのは苦しい財政問題であった。
その後は、数々の困難を乗り越え皆野高校の発展充実のためにPTA・後援会の存在は、学校運営の大きな支援となった。
PTA活動60年間、後援会活動58年間、令和5~7年度最後の横田昌弘PTA会長(第42代)、田島晴子後援会長(第16代)まで精力的に活動を続けた。
最後のPTA・後援会研修バス旅行(令和5年度)
令和5年11月18日 掘削中の大滝トンネル 及び山梨方面へ